2019年9月24日、NYのアートシーンに、一つの歴史が刻まれた。キースへリングが描いた伝説の壁に、日本人アーティストの松山智一が巨大な壁画を完成させたのだ。
日本を通り越して世界で名を響かせる松山智一の、これまでの軌跡を語ってもらった貴重なロングインタビューをお送りする。
Q:アートで生きていこうと思うまでの過程をお聞きしてもいいでしょうか?
大学に入った頃は、本気でプロボーダーになろうと思っていました。でも21歳の時に大怪我をしてしまってその夢が断たれてしまったんです。
当時、大学を一年休学して、世界中に遠征していたのですが、ある時、大げさじゃなく足が逆向きにねじれちゃうような怪我をしてしまって(笑)。そのあと、10ヶ月のリハビリを経て、普通に歩けるようにはなったんですけど、これから何やろうかなあと途方にくれたのが22歳の時でした。
上智大学経営学部を卒業した後、色々考えた結果、商業デザインをやろうと思いたちNYに留学することにしました。それまでやっていたスノーボードも、どこか自分の「表現」だという気持ちがあって、それが断たれた時、何か表現する仕事をしたいという思いはあったと思いますが、正直、アートを仕事にするという発想がなくて、あくまで仕事として「商業デザイン」を学ぼうと思っての渡米でした。
NYに行ってからは大学院できちんと学んでみようと思ったのですが、そこで何を学んだかというと、まずはデザインツールの勉強、つまりは「アドビ」ですね。完全にテクノロジーベースというか、フォトショップやイラストレーターの使い方をみっちり勉強させられましたが正直まったく面白くありませんでした(笑)。
その代わり深く学んだのが「実利性」という部分です。アメリカはロジックの国なので、そこを徹底的に叩き込まれました。その中で分かってきたのは「グラフィックデザインは課題解決」だということ。作者の個性は出すべきではないと。一方、NYですから自然とアートに触れる機会も多く、デザインとアートとの違いというか、アートは「問題を定義し、考えるきっかけを作る」ものだということが呼応して分かってきたんです。
今までアートに対して漠然と興味はあっても、それを職業にすることなんて考えたことはなかった、けれど、商業デザインを学ぶ中でデザインの限界を感じ、ジリジリと思いは募り、アートの「問題を解決するより定義する」という部分に強く惹かれ、チャレンジしてみたいと決めました。
ただ、自分にやれるのかという葛藤は当然ありました。小さい頃から絵を書くことは好きでしたけど、手ほどきを受けた経験がほぼ皆無。かといって、一からファインアートを学んでいる時間もない。でも、やらないよりはやろうと決めたんです。アートを職業にして生きていこうと。それに「概念を作る」ということなら自分なりのやり方があるんじゃないかという根拠のない自信もどこかにあった気がします。それが25歳の時です。
Q:初期の頃はどんな絵を描き、どうやってチャンスを掴んでいったのでしょうか?
最初は小さなキャンパスを買ってきて、描いたりしていました。でも、やっぱり人に見てもらえる機会を作るのは大変で、そりゃそうですね、死ぬほど人も作品もあって、その中で抜き出るというか、まず目に止まってもらうためには何か考えなきゃいけない。何か方法はないか考え抜いた結果、人通りが多いところで晒すほかなく、街をキャンバスにしようと外に出て描き始めたんです。
当時、キャンパスに描いた絵を1枚50ドルとかで売ったりもしてましたけど、それで食えるわけがなくて、いろんなバイトをやったりしていました。それに加え、街に出て絵を描き続けていたところ、ある時、25メートル幅の壁に描くチャンスが転がり込んできて、それをなんとか描き上げました。
そして、そこに描いた絵が関係者の目に触れて、ナイキから声がかかったんです。それでコラボプロジェクトの依頼があって、初めてまとまったお金が入ってきて、よしこれで数ヶ月は食えるぞって(笑)。
そのお金で食いつないでいるうちに、また何か次に繋がる面白いものを作らなきゃって頑張って、そんな感じで作品を積み重ねていくうちに、だんだんギャラリーでも扱ってもらえたり、そこでの値段が上がって行ったりという感じでした。
ちなみに、この頃に、ストリートで描いていたバンクシーやKAWSと出会ってて、そういう面白いアーティストたちとのネットワークが自分にとっては本当に貴重でした。
Q:松山さんのアートをはどうやって生まれたのでしょうか?
僕のアートを一言でいうなら「異文化のマッシュアップ」です。「リミックス作業」とも言えるかもしれません。
僕は、芸術家がするべきことっていうのは、自分たちの時代背景を、等身大の言語で描写できるかだと思っています。自分の主観を世の中と共有して、そこにコミュニケーションが生まれ、観る人と対話をさせる。自分が生きている時代を切り取ってどう定義づけられるか、それを捉えられれば、きっとアートになるはずだと思いました。
そして、25歳から始めた僕が、スタートも遅くて絵が描けないというのを、逆手にとるというか、それを自分の長所として概念化できないかと思ったんです。
回りにいる違う世界のクリエイターはどうやって作っているんだろう、今のクリエイティブはどこにあるんだろうって、周りを見回してたどり着いたのが「編集」という概念だったんです。
例えば90年代にヒップホップやクラブミュージックをみてみると、リミックスやサンプリングといった「編集」がキーワードとなっています。この手法で世の中を切り取ることができれば、きちんとした教育を受けていない自分でも表現者としてなにか伝えられることがあるのではないかと思ったんです。他ジャンル、例えばファッションでも「リメイク」的なものが取り入れられたり、至る所でそういう流れが起こり、それは時代の必然だったと思います。逆にいえば「編集」が、私たちの時代において新しい表現領域のとして確率したんだと思います。
僕のアートは、ぱっと見、ポップアートのようにみえるかもしれませんが、よくよく見るとその中には東洋的な要素を意図的に介在させており、密度は高く、情報量も多いと思います。多層的に情報を重ねて、それらが違和感なく一つのイメージなるるまで徹底して作り込んでバランスを取っています。文化の隔たりがなくなるよう、西洋の観点でグローバルの観点でアジアが配合されている感覚は、お寿司で例えるなら江戸前よりは、最高級の「カリフォルニアロール」というところでしょうか。
Q:何か一つ具体的に「編集」的な絵の作り方というのを教えていただけないでしょうか?
はい、下記の絵を例にとって説明させてもらいたいと思います。
このちょっとエレガントな室内に、女性が立っているという絵なんですけど、もともと私のアトリエには、インテリアやファッション系の切り抜きというのが、数えきれないほどストックしてあって、まずは素材をチョイスしていきます。ここでいえばインテリア雑誌の内装画像やファッションの誌面から人物像の引用、様々な時代や場所など異なる概念をもつ画像を集めることから始めるんです。
そして、下記にあるような、絵や陶器やなどから柄を重ねていくんですが、この作品では、他にもポピュラーカルチャーから工芸品、現代美術からファッションなどのすぐに消費されるものを介在することで、文化やSNS時代の「曖昧さ」を捉えようとしました。
Q:松山さんの考えるアートの意味とは何でしょうか?
アートとは「問題を提起する」「考えるきっかけを作る」ものだと言いましたが、僕の場合は、組み合わせによって意味を作ります。何を組み合わせるかによってそこに意味や文脈が生まれるように作るんです。
自分の中で強く意識しているのは「解像度」です。DVDからブルーレイに変わった時に、解像度がぐんと上がって感じた焦点が合わない感覚ってあったじゃないですか。目の前の消化しきれない鮮明な情報により、一種の気持ち悪さみたいなものまであったと思うんですけど、情報量の多さの中に、質というか解像度というか、そういうものは僕がつくる視覚言語の特徴と言えるものでもあるかもしれません。
30メートルの距離で見て感じる密度が、30センチの距離で見たって同じものがそこにあるようにしたいんです。
Q:日本の文化、芸術についてはどんな風に考えてらっしゃいますでしょうか?
アメリカに行って感じた肌の色の壁は想像以上でした。文化の壁、言語の壁なんか比ではなく、歴然とある。芸術の世界は、白人至上の歴史の中で育まれたもので、流動資産の要素も含むことからユダヤ人が非常に多いこと、そういうことはアートの本質とは関係ないようでいて、文化と経済が密接な関係があることは切り離せない要素です。そういう中で、アジア人は、そうした西洋美術の歴史に含まれてこなかったため、存在自体受け入れてもらえる間口はないんです。いわば論外の存在なんです。そこをどう突破するか、どうやったら世界に通用するものを作れるかと言う意識はずっとありました。
日本文化って、僕は世界に誇れるものだと思っています。例えばフランスとかヨーロッパの造詣が深い人は、われわれの食文化や歴史の成熟度に関して、最大限のリスペクトを持ってくれていることは間違いなんです。ただ、やはり、ここでも、そのレベルがどれだけ高くでも範疇外なので、世界のルールに適応しようがないんです。普通の外国人じゃわからないのは無理ないですよね。文化のガラパゴス化がここでも働いてしまっています。また交わる文化がなかったので、非常に高度にレイヤー化されており、唯一無二すぎて、それをそのまま海外に持っていっても高度すぎて理解される土壌がありません。つまり、理解されるためにはインフラの整備から始めないとなりません。
それともう一つ、海外だともう少しアートが社会と日常に近いところにあります。特権階級に億単位で作品が画廊で取引されつつも、一方でパブリックアートのような形で、日常のなかで機能を持ちアートに触れる機会も作っています。「税控除」制度も優遇されており、文化貢献をすることへの後押しと支援することが推奨されていることは確かです。欧米の文化に比べると、日本は芸術の機能性、汎用性、流通性に対して距離があることとは事実でしょう。
こういったギャップも日本の面白いところだと思うのですが、ともかく日本人としても、そして一人のアーティストとしても、日本の文化・芸術を自分というフィルターで落とし込んで、自分にしか描けないものを作りたいのはこれからも変わりません。
ちなみに、僕がアートを始めて18年間、日本では活動できなかったのはそうした理由からです。というのも、若いアーティストにとって場がないことは、必然的に活動領域が限定的になるからです。作品が売れる、売れない。画廊以外でも発表する機会に恵まれない、また芸術家自身が社会との関係を直接もてないとなるとできる場所を模索するほかなかったからです。
でも、20代半ばにして、アーティストとしてのキャリアをスタートさせ、ようやくスタジオを運営しつつスタッフも多数かかえるところまでこれました。外国で大きなパブリックアートもつくる機会にも恵まれ、美術館のパーマネントコレクションとかに納まったりするようになってきて、同発的に日本でも、バスキアを競り落としたとニュースになったり、アートに対する感度が上がってきていますよね。そんなタイミングで、日本とは自然な形で輸入されるように、やりたいことが形になってきているので、すごく嬉しいし、これからが楽しみです。(完)
2019年10月20日(日)23:25より『情熱大陸』放送
https://www.mbs.jp/jounetsu/
■松山智一 プロフィール
岐阜県出身、1976年生。上智大学経済学部卒業。
2002年、大学卒業後渡米、ニューヨークにある「NY Pratt Institute」という美術大学院に入学。首席で卒業。
25歳の時に描いた25メートル幅の壁画がきっかけとなり、各メディアから注目を浴び、今では世界各国での個展、多くの世界的美術館のパーマネントコレクションに作品が貯蔵されている。
現在はブルックリンにスタジオを構え、活動を展開しており、今後、日本での巨大プロジェクトも控えている。
松山智一オフィシャルWeb
http://matzu.net/